3日間におよぶエスノグラフィ実務家の集まりの中、この手法の強みのひとつとして「共感を呼ぶ物語を伝える」力が強調される一方、安易なわかりやすさに流れるまい、という強い意志を見せるディスカッションも少なくなかった。
たまたま2つの別々のセッションで、質疑を受けたディスカッションの中で出てきた「ペルソナ」をめぐる議論が象徴的に思えた。
ペルソナは多くの場合、企画などのユーザーやターゲット像をリアリティのある人物像として描くことで、わかりやすく共有するのに用いられる。エスノグラフィでも調査結果を分析する際、わかりやすくする目的で人物像を「ペルソナ」として描くことも、やろうと思えばできるだろう。しかしエスノグラフィに携わる人は、往々にしてこれを避けようとする。
ある発表者は「ペルソナを作らなかったのはなぜ?」と問われて「ペルソナの人物像には空想で補う部分が必ずあるので、どうしても恣意的になってしまう。だからペルソナではなく類型をつくった」と答えた。
また別のセッションで同じ問いを受けた別の発表者は、描きたいのは「人物像」ではなく「状況」だ、と言った。現実の人間は誰しも多面的であり、矛盾を抱えている。それをきちんと見るには「状況」の方が繊細な拾い方ができる、と。さらに「首尾一貫性のなさや意志の弱さを持つ現実の人間の複雑さと比べると、都合のよい人物像は浅く単調で固定されたものになってしまう」と説明した。
人にフォーカスを当てる中で、現実の人間が持つ矛盾や予想しがたい姿をこそ大事にしたいという姿勢に、人を観察することをなりわいとしてきた専門家の気概を強く感じさせるやりとりだった。